つわり雑記
妊娠、それはつわりとの戦いだった。
ちょっと気分が悪い?職場でひっそり吐く?
私が知っていたつわりは所詮ドラマ用に作られた「それ」でしかなかったと気付くのにそう時間はかからなかった。
油ものは気分が乗らないからスープでも作ろうかな……と思い立って出来上がったコンソメソープのにおいで吐くところから「それ」は始まった。
twitter(X)で「ごま油」という文字列を見ただけで吐く。
シャワーの湯気で吐く。
咳をした衝撃で吐く。
街中の「定食」という看板を見て吐く。
元来、私という人間は食い意地にあふれた人間であるから、食べ物の文字列を見ただけでもパブロフの犬のように味や匂いを想像してしまい、吐き気を催してしまっていた。
情報にまみれた社会の中で食べ物の話題を避けることは難しく、でもつわり症状を軽減する方法は調べたいため、意味があるのかは分からないが薄らぼんやりと半目でネットの海を泳ぐ日々が始まった。
また、口の中にものを入れるとどうしても嗚咽反応が出てしまうため、毎日の歯磨きの時間が苦痛だった。
歯ブラシを口に入れると必ず吐くため、口の中を綺麗にするための行為でさらに口の中を汚くしてしまう、歯磨きは何の意味があるか分からない儀式と化していた。
つわりは早い人は妊娠5週目から始まり、ピークは8~10週頃、安定期の16週頃にはつわりが終わったと感じる人が多いらしい。
つわりが始まる5, 6週とは胎児の心拍がようやく確認できるかな?くらいの週数でしかない。一方で「妊娠12週の壁」という言葉もあり、妊娠12週未満までは特に流産が起こりやすい時期でもある。
職場の上司への妊娠報告のタイミングは理想では安定期の16週に入ってからといわれることが多いが、つわりが一番辛い時期に仕事を休ませてもらうためには、まだまだ流産の可能性が高い時に報告することになる。
幸いにも私のつわりは安定期に入って終わりを見せたが、一番辛いのは「終わりが見えない」ことだった。
私の場合、6週には立派なつわりが始まったが、一般的なピークは8~10頃、つまりこんなに辛くても今がピークではないうえに、最低でもあと4週間はつわりが続きそうという事実に気が狂いそうだった。しかも出産までつわりが終わらない人もいるらしいということを知った時には絶望でしかなく、人間、やっぱり終わりが見えないことが一番の苦しみだと悟った。
そして私は人よりもだいぶつわり症状が重かったようだ。終わりの見えないつわりをただひたすら耐え、生きているだけで日々を消化し、ピークといわれる10週を超えても尚吐き気は止まらず。
水を飲んだだけで緑色の液体を口から放出するようになった11週で入院した。ケトン体+4、脈拍150、体重-9㎏、気が付けば10mも歩けなくなっており、よく生きていたなあと思う。
その胎児は今や2000gを超え、あと少しでお腹から出てくる予定だ。
母体が栄養を摂れない中、ここまで大きくなってくれた我が子は生まれながらにして世界一の孝行な子だと思う。ありがとう。
最後に、つわりで精神的にも肉体的にもどん底だった私を救ってくれた言葉を置いておく。
「胎児はまだ豆粒ほどでしかないから、栄養取れなくても大丈夫!」
つわりで苦しむ妊婦さんが、少しでも心を休められますように。
実家と、家族と、
久しぶりに実家に帰った。
飛行機の距離の我が家。
久しぶりに見る家の外装は年季を帯びた色に変化し、水槽のメダカは増えていた。
父方のおばあちゃんは、帰る度に背が低くなっている。
つい数年前まで、私を見ては「あれ、〇〇ちゃん、また背が伸びた?」と聞かれていたが、背が低くなっているのが自分のことだと気が付いたようで、最近はもう聞かれなくなった。
母方のおじいちゃんは、「生きている間に使わないと、もったいないからなあ」と言い、集めて飾るだけだった高級茶器を引っ張り出してお茶を飲むようになった。
母方のおばあちゃんは、数年前まで人前ではウィッグをかぶっていたけれど、
最近は陽に当たるとキラキラ光る白髪を隠さなくなった。
父は定年を迎え、海へ山へと駆け回っては魚や山菜をご近所さんにおすそ分けするような、立派な色黒のおじさんになった。
母は長年かけていたストレートパーマをやめ、あちらこちらに自由に広がる天然パーマを活かした髪型になっていた。
誰もがみんな年齢を重ね、一歩ずつ着実にゴールへと歩んでいる。
それは悲観的なことばかりではなく、これまで向き合ってこなかった本来の自分自身と対話し、受け入れるということなのだと思う。
私がまだ実家で暮らしており、父の髪の毛に白髪が混じるようになった頃のことを時々思い出す。
歯磨きをしようと洗面台に向かったら、鏡の前で父が自分の髪をじっと見ていたのだ。
ただそれだけのこと、たかがそれだけのことだが、ずっと忘れられない。
あまりファッションにこだわりがない父でもやっぱり白髪が生えてきたことはショックなんだと、年を取ったことを受け入れるのはそう簡単なことではないのだと。
毎日だと気付きにくいけれど、誰もが必ず年を感じる瞬間がある。少しずつできなくなることが増え、それを受け止めた先には何が待っているのだろう。
そんなことを考えつつ、最近痛むようになった腰をなだめながら帰路の飛行機に乗った。
ネタバレの効用
自分のことを特異な人間だと主張したいわけではないけれど、大多数の人々と価値観が違うなと思うことがあります。
それが表題の通り、ネタバレ大歓迎!なところ。
ネタバレが気にならないどころか、ネタバレを見てから映画や本を鑑賞する方がむしろ楽しめるとまで思っています。
ネタバレの効用
映画を見終わった後、……つまりあの登場人物が言ったセリフはどういう意味だったんだ? とモヤモヤする人、いますよね?
出来事の時系列が分からなくなり、解説サイトを見る人、いますよね?
登場人物の相関関係が分からなくなり、相関マップを検索する人、いますよね?
推理小説で予想だにしない登場人物が真犯人だったと判明し、(だれ……?) となる人、いますよね?
(そんな経験ないという方はお引き取りください。あなたは頭がいいです。)
悲しいかな、私はそういった経験を繰り返してきました。
しかしネタバレを食らった後で鑑賞するとどうでしょう。
(あ、こいつが真犯人だからしっかり行動見ておこう!)
(今言ったセリフ、主人公に好意を持っているんだな!)
(今から地獄に落とすからこそ、ここで持ち上げているんだな)
(この人いい人そうに見えるけど裏では不倫してるからな。だまされるな!)
そんなことを心で思いながら鑑賞できるわけです。
つまり何が言いたいかというと、
ネタバレとは 鑑賞における重要なポイントを知ること であり、
すなわち、ネタバレを知ったうえで作品を鑑賞するということは、
重要なポイントを見逃さずに作品を楽しめる ということです。
ハリーポッターで例えると
以後ハリーポッターのネタバレが含まれるので、
ネタバレNGな方はお戻りください。
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ハリーポッターのスネイプ先生、
彼は物語におけるキーパーソンで、その真意は終盤でやっと明かされます。
それまで高慢で陰湿で嫌味な人間に見えるように描かれていたのに、実は二重スパイをしており、ハリーをずっと護っていることをハリー自身にも伝えない。
本心を隠し通す影の主人公です。
物語の終盤で彼の一途な思いが明らかになり、涙した人多いですよね。
スネイプ先生の生き様が露わになったところで、もう一度作品を初めから鑑賞する余力がある人、どれくらいいるのでしょうか。
伏線がそこかしこに織り交ぜられた作品なので、一回見ただけでは理解が追い付いていない場面もあります。
結末を知ったうえで再度鑑賞すれば理解度が深まりそうですが、なんせ長い作品です。
・・・結末を知ったうえで再度鑑賞すれば理解度が深まりそう……?
これこそがネタバレの効用です。
全く同じ映像を二回見るわけではないので間延びしません。
いわば、ネタバレは要約です。要約と本編は異なります。
要約を読んでから本編を読むと、本編だけ読むよりも理解度深まりますよね。
それがネタバレの効用です。
神様視点
ネタバレを知ったうえで作品を鑑賞することには、実はもう一つ効用があります。
それが 神様目線を味わえる ところです。
物語の最後にロンとハーマイオニーは結婚します。
しかしやっぱりこの物語の主人公はハリーなので、ハーマイオニーはハリーと付き合うんじゃないか、ロンはたぶんいい友達どまりだろう……
一話では多くの人がそう思うのではないでしょうか。
炎のゴブレットではお互いの好意が見えるものの、なかなかこそばゆい展開です。くっついてほしい、でも二人が恋心を自覚し素直になれる日は来るのか……
これが、ネタバレを知っているとどうでしょう。
「うーん、こそばゆい展開だけど大丈夫。この二人、結婚するから!」
絶対の安心感があります。だって結末知ってますから。
もはや二人の恋愛を見守る親の気分です。
全体を俯瞰して味わうことができるので、謎の優越感があります。
切り抜き動画もそう
最近Youtubeでは切り抜き動画がすごい伸びてきてますよね。
私もよく見ます。これもネタバレと同じような類のものだと思っています。
スピードを求められる時代において、切り抜き動画は重要なところをかいつまんで味わうのに最適です。
また切り抜きを見た上で、配信アーカイブなどを見ることもありますが、
切り抜きを見ていると「あ、この場面、切り抜きで見たところだ!」と気づくのです。
個人的所感
おそらく私はスピード感のある時代に慣れてしまったせいで、余韻に浸りながら同じ映画を何度も見たり、一度読んだ作品を何度も読み返すことができなくなっています。
一度の鑑賞で最大限作品を楽しむために生み出したのが、
”ネタバレを頭に入れたうえで作品を鑑賞する” という方法なのだと思います。
もちろん、ネタバレを入れずに味わった作品が一番心を揺さぶられます。
これは間違いないです。断言できます。
もし情報過多な社会で予期せぬネタバレを食らってしまい消沈している人がいたら、
こういう楽しみ方もあるんだよ と思ってもらえたら嬉しいです。
一人称で遊びたい
男性と女性どちらのほうが大変とか、生まれ変わっても女性がいいとか、毎日のようにどこかで繰り広げられている議論。
私は男女どちらがいいと悪いとか言うつもりは全くないが、一つだけ、男性が羨ましいと思うことがある。
それが ”一人称” だ。
汎用性の高い「私」
ステレオタイプではあるが、女性は一人称として「私」を使うことが多い。
かくいう筆者も「私」を愛用している。
幼稚園の頃は自分のことを名前+ちゃん付けで呼んでいた時期もあった。
しかし言葉遣いに厳しい祖母から「もういい年なのだからその呼び方は止めなさい」と諭されてしまった。
筆者は郷に入っては郷に従い、長いものにはとりあえず巻かれておけばいいと思っている人間なので、それ以来ずっと、私は「私」だ。
実際「私」という言葉は汎用性が高い。
とりあえず「私」と言っておけば失礼にはあたらないし、公私どちらでも使える。「私」を使っておけばドン引かれることもなく、丁寧すぎて気を遣っていると思われることもなく、本当に便利な一人称だと思う。
それでも…
「私」は単体で使用しても、それ以上でも以下でもないのだ。
素朴な「僕」、ワイルドな「俺」、高貴な「私」
男性が使用する一人称は大まかに「僕」「俺」「私」が思い浮かぶ。
「僕」「俺」「私」を並べてみると、「私」単体では見えてこなかったキャラクター像が浮かんでくる。
「僕」は素朴な少年。動物が好き。
「俺」はワイルドな野生児。髪の毛が上を向いている。
「私」は高貴な仕事人。スーツが似合う。
男性はこのキャラクターを場面によって巧みに使い分けることで、いわゆる”ギャップ萌え”を容易に実現できてしまう。
ギャップ萌え
オラオラな見た目の人の一人称が「私」だと、おっこいつやるな…!となったり。
仕事のときは「僕」を使う人が、私生活では「俺」を使っていると、プライベートでは案外今どきの男性なんだなと感じたり。
実際、一人称の使い分けをしている人ってどれくらいいるのだろう。
自分をどう見せたいか、どう見られたいかによって使い分けてみると、絶対楽しい。
成長の過程
少年から青年へのアップデートには、「お母さん」から「お袋」への呼び方の更新と、「僕」から「俺」への一人称バージョンアップが含まれていると聞く。
筆者にも兄がいて、このアップデート対応は傍目から見て大変そうだった。
友達の間では「俺」を使い、家に帰ると「僕」に戻る。一進一退、日進月歩で徐々に徐々に自身と家族を「俺」に慣らしていき、やがて「俺」と聞いても何の違和感もなくなるまでに至った。
そこに至るまでの過程を味わえるのは男性ならではなのかなと思うが、自分は恥ずかしいし面倒なので、そこのところは「私」一強でよかったなと思う。
少年は僕から俺へと更改し PJ大人の一歩目を歩む
人生の最後に答え合わせがしたい
あのとき告白してたら付き合えてたのかとか、今の結婚相手と出会ってなかったら今頃独身だったのかなとか、きっと誰でも考えたことがあると思う。
なんせ人生というのは選択の連続で、どこに行くにも何を食べるにも選択なのだ。
数えきれないほどの選択と、自分の力が及ばない物事との複雑な絡まり合いで、私の人生は進んでいる。
鶏肉を食べるという選択
自分の人生で、あれは大きなターニングポイントだったなと思える選択がある。
中学2年の時、親戚の家で鶏肉を食べたことだ。
どうにも味が変だった。食べるのをやめるという選択もできたが、親戚の家ということもあり全部食べるという選択をした。
そして一週間後、経験したことのない腹痛で入院。カンピロバクターだった。
そして数週間後、手足が動かなくなり再入院。ギランバレー症候群と診断された。
そして数か月後、中学校に戻るとかなり勉強が進んでおり、私だけ「√(ルート)」を教わらないまま学習期間が終わっていた。
鶏肉を食べるという選択は、「√」への苦手意識という結果をもたらした。
小さな選択、されど選択
大学選びなんてのは大きな選択だ。住む場所、就く職業、巡り合う人々、全てに影響するといっても過言ではない。
一方、今日の夕飯選びなんかは小さな選択に思える。今日がカレーだろうが肉じゃがだろうが、カレールーを買いに行くかどうかしか変わらない。
しかしそれだって分岐路に立っている。カレールーを買いに行く途中で雨に降られ、雨宿りのために寄ったコンビニで新作のアイスを発見。買って家で食べたところ、めっちゃ歯にしみて知覚過敏を自覚、なんてことにもなるかもしれない。
知覚過敏を自覚したから何なんだといわれると、言い返す言葉もない。
単に、こういった妄想を重ねるのが楽しいだけだ。
答え合わせがしたいだけ
テストなんかは、ここでBじゃなくCを選んでたら90点だったな~と答え合わせができる。
それを自身の人生にも重ねてみたい。選択次第でどういう未来が待っていたのか分かりたい。
あれを選んだのは間違いだったのか……と後悔したいわけではない。
あの日の夕飯でカレーじゃなくて肉じゃがにしていたら、知覚過敏に気づくのが遅れて歯周病が悪化していたよ。とか知って、ゲラゲラ笑いたいだけ。
人事は尽くしていないし、天命を待ってもいない。
———人事を尽くして天命を待つ———
できる限りのことはやった、だから後は静かに結果を天の意思に任せるという諺。
……なんて素晴らしい言葉なんだろう。
全力を尽くしたから、どんな結果になったとしても悔いはないという心境。
どれほどの努力を積み重ねたらその境地に辿り着けるのだろう。
閑話休題、タイトルに戻る。
人事は尽くしていないし、天命を待ってもいない。
これは、かの思想家ニーチェが自身の著書『ツァラトゥストラはかく語り』(1885)で語った言葉である。
なんて大嘘であり、筆者がよく心の中で使っている免罪符だ。
私は常日頃から努力を怠っている自堕落な人間だが、どうでもよいところで案外潔癖であり、責任転嫁をすることにどうも抵抗がある。
人事を尽くしていない人間が天命を待つなんて、天に失礼というものである。
だって努力を怠っているのは私なのだから、悪いのは私以外の誰でもない!
悪い結果は受け止めるし、それは自身の怠慢が招いた以外の何物でもない!
人事は尽くしていないけれど、天命も待ってないので許してください~~~( ;∀;)
人事は尽くしていないし、天命を待ってもいない。
この言葉結構鋭いところ突いていると思うんだ。
本当に人事は尽くしたのか?天命を待つほど、お前は努力したのか?
自らを省みる言葉として流行らないかなぁなんて思うけれど、肝心の筆者はこの言葉を開き直りとして使っているから全くもって説得力がない。
テラス席で瓦そばをいただく
私は逃げ恥のオタクである。
逃げ恥といえば星野源と新垣結衣の初々しいやり取りをニヤニヤしながら眺めるのが醍醐味だが、ドラマに登場する料理も注目ポイントである。
ガッキー演じるみくりさんがふるまう料理の数々は勿論だが、ドラマを見て以来どうしても食べたくて仕方がない料理があった。
瓦そば
茶そばやお肉を熱々の瓦の上で焼き、温かいつゆにつけて食べる山口県のソウルフード。
ドラマでは星野源演じる平匡さんが山口県出身という設定であり、思い出の料理として瓦そばが登場する。
だいたいお皿というものは \___/ こういう形を想像するのに、まさかの /⁻⁻⁻⁻\ こっち。
料理を盛り付けるのにあまりに向いてない形。人選ミス、というか皿選ミス。
その野性的な見た目と郷土感がたまらなく、一度は食べてみたいと思い続けていたところ、たまたま山口県に行く機会があり、ついに瓦そばを食することができた。
いざ食す
コロナ禍ということもあり、テラス席を選択。目の前は真っ青な日本海。そしてほどなく届く瓦そば。
……!!!
これこれ!ドラマでみたやつ!
熱々の瓦の上で茶そばが焼かれ、錦糸卵やお肉がきれいに並び、レモンと紅葉おろしで味変もいける。あたたかいつゆに茶そばをつけ、いただく。
あ~~~めっちゃ好き。
瓦の上で茶そばがパリパリになっており、それをつゆにつけていただくからこそ歯ごたえがたまらん……
なんて悠長に味わえていたのも数秒だった。
ここは本州最西端。目の前は真っ青な海。
海風をなめていた。
全部飛んでいく。海苔も、ネギも、錦糸卵も飛んでいく。
そばをつゆから引き上げると、あたたかいつゆも飛んでいく。
白いシャツ来てなくてよかった~~~
・瓦そばはテラス席で食べるべきではない。
・瓦は石窯で焼いて提供される。石窯ピザも別メニューにあった。
同じお店で瓦そばもピザも食べられるのは嬉しい。商売上手だと思った。